ストレンジャーメモランダム_1

小汚ない一室の玄関口を開け放つと、微かな臭気を帯びた煙が、蒸せかえるような夏夜の熱気に当てられてぼんやりと消えていった。
橙色に揺らめく昇降口の光が、不機嫌そうに通路の輪郭を浮かび上がらせ、それに劣らないぐらい仏頂面な、男の顔をも照らし出している。
既に時刻は夜四つを回っている。他の住人は、密林に佇むかのような茹だる熱帯夜に耐えかねて、自室に引きこもったままだ。
人の呼吸音の代わりに、途切れることのない室外機の鳴動音が否応なしに男の耳に飛び込んでくる。明らかに吸い込む力より吐き出す力の方が強い。
「そんなに知るのが怖いか」
誰に言うでもなく呟いたその言葉が、誰かの耳に届く道理は無かった。

タイヤの空気が半分程抜けた自転車に跨がって、暗がりの街を疾駆する。暗がりとは言っても、規則正しく電柱に括りつけられた灯りが、これまた規則正しく卵白の色に似た光を投げ続けているため少しも視界に不足はない。おまけに一本道だ。時折道路の脇腹が空いていて、軽自動車のビームライトが、男の進路をに対し垂直に光線を浴びせるため、その度に一時停止しなければならないが、男のヘッドフォンから流れる空元気なポップソングには、一時的に不愉快な気分をある程度麻痺させる効力があるらしい。
口笛でも吹いてやろうか、と思ったがすぐに止めた。
近くの駐車場では、首輪の付いてないネコたちが錆びついた軽トラックの周りに屯している。
男は信号待ちをしている。
丁度、電柱の灯りの列、一本道の終わりを知らせる横断歩道の手前だ。数匹と目が合う。
そいつらは、男の顔が見たかったのか、それとも自分の顔を見せたかったのか、あるいは数メートル先の、最後の切れかかった電灯が放つ光の威光に預かりたかったのか、今となっては判然としない。

皆、一様に片目が無かった。

男は何事もなかったかの様に自転車を漕ぎ出し、慣れた動作で路肩にそれを止めると、開いているのか閉まっているのかも知れない古びたバーの扉を押して、店内に入った。