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2分、遅れます。

タイムリーでも、周回遅れでもない、思考の振りまき。

ホタル-3


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上空には、いよいよと白味を増した巨大な月の光が、硝煙を透過しつつゆったりと揺れている。

 

彼女は、僕に視線を傾けている。地面を撫でていたその指は、今は懐から取り出された一冊の文庫本に書かれたある1節をなぞり続けている。

 

僕にはもうこれ以上、彼女に語りかける言葉は見当たらない。

 

「読んで」、と口に漏らした彼女の指先に触れられているのは、傷みきったページの隅に書かれている、判別できない物語の続きだ。

 

 

散っていった花火の、細砕した消しズミが静かに池の底に沈んでいく。

ケースの中の、あの金魚たちもそこに混じっているのだろうか。

 

ホタルが狂ったような光彩を水面に放ち、僕の口は、途切れてしまった物語の一編を静かに編み始めた。

 

「もし、僕たちにその時が来たら、一目散に街を去らなければいけない。油で濁った雨が降ってくる前に。だけど、その前に僕たちの命はここで尽きてしまうのだろう。

 

叶うのならば、お互いの手を直に取り合い、深い水底へと身を投げてしまえるだろう。

 

登りつめて行く、二対の泡沫は、水面に僅かばかりの波紋も作らずに静かに消えていき、長い、長い、瞬きの間に、僕らは........」

 

 

彼女の瞳から温かい泪の粒が、一筋、頬を垂れていく。

 

次々に零れ落ち、彼女は泣いて、泣いて、泣いて、泣きながら静かに佇まい続けた。

 

池の光彩が、敏感になった網膜を刺激している。

濡れた彼女の頬に反射したその光と、泪に滲んだその瞳が、僕を捉えた瞬間、僕は言葉もなく彼女の華奢な両腕を取り、そのまま、柔らかい地面の上に、いとも簡単に組み敷いてしまった。

 

 

 

 

あれから、もう何年も経ってしまっている。僕は相変わらず茫然たる顔つきでこの街に留まり続け、判然としない視線を揺らめく池の水面に投げかけ続けている。

 

舌の奥に、まだあの時の味を思い出せる気がする。彼女も、似たように僕のことを思い出せるのだろうか。見えない筈のその瞳に、あのホタルたちの光彩を映し出すことが出来るのだろうか。僕とは似ても似つかない誠実な男のじめりきった肌を、その身一杯に感じられているのだろうか。

 

 

僕を、赦してくれるのだろうか。

 

 

濁りきった池の水がただ不機嫌そうに微風に変化を委ねている。昨年を境にこの街のホタルはとっくに死に絶えてしまったらしい。

初夏の西日が陽炎を燻らせ、満開に咲いた睡蓮の花弁が、暑さで閉じかけた僕の瞳の隙間で幻影のように漂っている。

 

それに背を向けた僕の後ろで、水音が響いた。

飛び立った巨大な鷺の羽根の衝撃で、重々しい波が池全体を襲った。

 

 

細りきった根元を絶たれたその花は、鮮やかな幾重もの葉を水面に残し、池の底に沈むと、もう二度と見えなくなってしまった。

 

 

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