2分、遅れます。

タイムリーでも、周回遅れでもない、思考の振りまき。

バター

 

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 とてつもなく、ひん辛いスープを宛がわれ、彼の手は再度、氷が半分溶け出したミネラルウォーターが波打つグラスに伸びることになる。

 

 店内には、誰が選曲したとも知れない、センスの悪いジャズが流れ、ふと辺りを見やると、けばけばしいネックレスをぶら下げ、頭の先から足指に至るまで気取りに気取った貴婦人が、うっとりとその演奏に聴き惚れながら、安っぽい銀色のフォークを捏ね繰りまわしている。

 

 

 相変わらず、外で飯を食うと碌な事が無い。彼は率直にそう思った。

 

 それは、彼にとって当然の処遇だとも言えるし、あまりにも理不尽で、滑稽極まる仕打ちにも見える。

 

 いずれにしても、もう、うんざりだ。

 

 

 「如何様にも致しますが」

 

 温厚そうな店主が、その手にグラスを握り締めたまま、咽続けている彼を凝視しながらお詫びの文句を述べる。

 

 "塩の分量も、まともに調節出来ないのか"

 と、喉元から出かけた声は、店主のその、無機質な言葉の前に、口内で溶け崩れグズグズになったジャガイモや、タマネギのまどろっこしい香味と共に、嚥下され、消えた。

 

 腹の奥にじわりとした暖かみを感じると、彼は幾分か冷静さを取り戻し、何か代わりの皿を持ってくるよう、店主に告げた。

 

 店主は短く頷くと、手際良く、まだ程よい熱気を保ったその皿を取り下げ、踵を返すと、まるで磁気にでも引き寄せられるかのように、厨房の奥へと向かっていった。

 

 

 口元を毛羽立った紙ナプキンで拭う。繊維の隙間に、彼の唾が染みる。すると、彼の真上に位置している照明によって、時折その液体がきらきらと光る。

 

 彼はそれを、汚らしいと思う。

 

 間違いなく今の今まで、自分の口の中にあったものだ。

 

 

 貴婦人は既に退店している。代わって席に陣取るのは、軽薄そうな顔をした、年の若い夫婦と、惨めったらしい雰囲気を纏った五歳くらいの子供だ。

 

 厨房から焦がしたバターの香りが漂ってくるたびに、その子供の放埓さが増していく。粗暴にのたまうその有様は、確実に、店内の他の利用客にも影響を及ぼしつつある。

 

 店内のBGMは何時の間にか、けたたましいトランペットの独奏に成り代わっている。

 

 彼を除いた、他の客の頭が、その旋律の高低に合わせて激しく揺れ動く。

それはまるで、夫にある日の夕食を無碍にされてしまった、彼の母にそっくりだった。彼女はその出来事以来、気が狂れてしまった。夕食の時間が近づくと、一通りの譫言を述べつつ、台所で食材を睨み続けるのだった。

 

 

 程なく店主が厨房のカーテンを払い、こんがりとソテーされた牛肉を盛った皿を片手に、彼の席に現れた。

 

 店内の狂騒は最高潮に達している。

 

トランペットが素っ頓狂な高音を天井付近までぶち上げ、客の誰もがあらん限りの奇声を張り上げ続けている。例の子供の咀嚼音も聞こえる。皿の上に盛られたオムライスの真ん中部分が抉られ、子供の口周りはケチャップで赤く縁取られている。

 そして、それに負けないほどに、赤く色づいた若鶏の肉が口の中で、踊っているのが見て取れる。

 

 

「大変な失礼を致しました。」

 

 

 店主が先ほど見た姿と変わらない、穏やかな表情で彼を見下ろしている。

 

 目の前に盛られた皿に、客の目は、爛々と輝いている。子供の目も、輝いている。

 

 そして、彼の母の目も、輝いている。

 

 

 

 会計を済ませると、店主は深々と頭を下げながら、彼に再び、詫びの言葉を述べた。彼は、"気にしないように"、とだけ短く告げると木製のドアに手をかけ、店を後にした。

 

 

 店をとっくに出て、帰途に着いている途中にも、他の客の、羨望の視線が彼の背中に突き刺さっている。

 

 夜もとうに更け始めているのに、明かりを灯した民家からトランペットが鳴り響き、胃の中では、渾身の思いで飲み下した肉塊が消化液に炙られて悲鳴をあげていた。

 

 

 

 路上の冷えた空気をすんっと勢い良く吸い込むと、鼻腔の奥にあの、焦げたバターの香りが蘇ってくる。

 

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